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  • 大晦日の「千巻心経」について
 すっかり更新が滞っており、閲覧者様には申し訳なく思っております。
もちろん、書くネタがないのではなく、雑事に追われているからに過ぎず・・・


さて、著作『師、威厳あって温厚なり』には、
巻末に付録として
「獅谷白蓮小清規」の抄訳が載せられております。
この時期に慌てて記事をアップしますのも、
タイトル通り、

法然院ではかつて大晦日に「千巻心経」が唱えられていたこと

を紹介しておきたいためです。


今、ご縁があってたまたま般若心経の講義もしております管理人ですが、
そもそも浄土宗では現在、あまり般若心経を唱える機会もありません。
せいぜい、道場での食事の作法(食作法・じきさほう)の時か、
そうでなければ地鎮式などのお祓い系のお勤めの時くらい。
まあ、なんせ

「南無阿弥陀仏」だけでいい

という宗派ですから、

“知ってるけど、使わないこともないけど、あんまり唱えない”
といったところが、
現在の浄土宗にとっての般若心経かと思います。
(もちろん、そうではないご寺院様もおありでしょうが。)

ところが、です。
拙書の283頁には、
「除夜 諸堂と鎮守社に香と灯明とを奉り、経を読む。日暮れのころ、山内の一同で本堂に入堂し、般若心経を一千巻読み上げる。その後、山門の外で餓鬼への施食供養をおこなう。次に一同で方丈へ行き、院主に挨拶をして、おのおの部屋へと戻る。」
と書いてあるではありませんか!

うーん、これはどういうことでしょう・・・。

まず、

般若心経が当然のように重視されていた、ということ。

また、
「一千巻」という気の遠くなる量。

めちゃくちゃ早く読んで、一巻1分としても、16時間強。
ちょっと計算すると、日暮れから始めると新年になっちゃうよな・・・。

それでいろいろ調べているうちに、結構なことがわかってきました。
まず、「千巻心経」という言葉ですが、これは今も行なわれているそうです。
ググッてみてくださるとわかるのですが、
方法も幾通りかあるようす。

まず、何日かに分けて読み上げる、という方法。
これだとすると、大晦日にフィニッシュになるように、コツコツと唱えてきた、ということ?

これとは別のやり方として、
一日のうちに終わらせなければならない、というもの。
これはキツイ!
いや、よく調べると、そうでもなさそう・・・?
「一人だと1000巻だけど、二人で行なうならば500巻づつ、三人なら333巻、四人なら・・・」
どうやら、参加人数で割って、分担性に出来るみたい。
これなら、大勢でいどめばいどむほど、らくちん!

私の推測では、当時の法然院は全員で20人から30人くらいはいらっしゃったでしょうから、
20人だとすると、一人当たり50巻、心経を読めばいいということ。
となると、一巻1分で50分だから、日暮れからでもいどめない数ではない。
おそらく、小一時間から二時間程度あれば、「千巻心経」もこなせたのではないでしょうか。
なんせ、不断念仏道場としてお経の絶えることのなかったお寺ですから、2時間くらい、ちょろいもん!だったことでしょう。
(六時礼讃も、一座がおそらくは2時間程度だったのではないか、と推測しております。)

そして、

「千巻心経」は、とってもご利益があるお勤め

なんだそうです!
今でも挑戦なさる行者系のお寺様がちらほらある理由です。
“具体的に、いい事が起こる”
ということ。

やりもしない者には物を申す資格もありませんが、
実践した者だけが得られる実感、利益、功徳、といったものが、厳然としてあるのでしょう。

論拠としては、般若経典そのものに、「さまざまな功徳がある」と書かれています。
特に、「魔を退け、福を呼ぶ」ということ。
だから年末にふさわしいのでしょうね。


ちなみに、「千巻心経」のルーツは、
聖武天皇につかえた僧・玄靴欧鵑椶(?−746)による、「千巻心経の写経」にあると思うのですが、どうでしょう?
玄靴蓮日本に般若心経を初めて紹介し、かつ広めたお方なのです。
そう考えると、

日本でももっとも古い仏教の作法のひとつ、

なのかもしれませんね。(ここでは、書写と読誦という違いがありますが、書写の際には読誦もなされたはずですし、読誦というのは、書写というより厳しい修行の省略形と考えられます。その分、「一日で終えねばならない」などのノルマが課せられた、とか。)


そうして、忍澂上人が般若心経を用いられた理由ですが、

宗派を問わず、一般的な「浄化作法」だったこと、
また
大晦日には用いることも一般的だったこと、
また
様々な行者たちと根っこを共有する「念仏の行者」として、やはり般若心経に一目置いていた、ということ
だったのではないでしょうか。

今みたいに、頭だけで宗教を考えた原理主義ではなく、
ごくごく自然に、
行者の世界では“般若心経を「浄化」のために用いること”を大切にしていたのではないでしょうか。
この、一年の最後の最後、という機会には。


もちろん、「念仏の行者」ですから、
普段は念仏オンリー、「南無阿弥陀仏」オンリー。
プラス、
阿弥陀仏さまのことをお敬いするための、浄土三部経や浄土礼讃を用いる。

それが常の在り方だったことに、ゆらぎはありませんけど。
  • 『獅谷白蓮社忍澂和尚行業記』、原著がネットで読めるようになりました!
今年は法然上人の800回遠忌。
浄土宗も、いろいろと記念事業を頑張っておられます。
そのなかでも、このネット時代に即した一代事業としまして、
『浄土宗全書』の20巻がネット上で公開されることとなりました!

そのなかで、第18巻!巻頭が

『獅谷白蓮社忍澂和尚行業記』

なのです!

いやー、すごいですね!
私が訳した原稿のそのものですよ!
「師、威厳あって温厚なり」とつき合わせて読んでも面白いかもしれませんね。
(訳者としては、非常に怖いことではありますが・・・)

実際、あまりにも細部に渡る場面などで、数箇所割愛した記事もありますので、
探し出されても面白いですね。
(大蔵経の校訂の始まりの部分で、大蔵経印刷の歴史の詳細などがありましたので割愛しております。)


本当はいろいろと記事をアップはしたいのですが、思うように書けず申し訳御座いません。
何カ寺か、上人ゆかりの寺院様・神社様にも足を運んだのですが・・・
気長にお待ち下さいませ。

  • 忍澂上人を取り巻く人々  その1 家族
 書きたいことは色々あるのですが、なかなか思うように時間が取れず、
記事の更新が滞っております。

さて、この本のなかに出て参ります
“忍澂上人を取り巻く人々”を
カテゴリーに分けて整理てゆきたいと思います!

第一回は、忍澂上人の実の家族です。

お父様の名は
二見恒貞(ふたみつねさだ)。
武蔵の国出身で、尾張徳川家の初代・徳川義直にお仕えしておられたそうですが、
仕えをやめ、故郷の武蔵国に戻り、江戸で暮らされたようです。

ご結婚が尾張でなのか、江戸でなのかはわかりませんが、
お母様は
“井上氏の娘”
とだけ記されており、お名前はわかりません。

ご兄弟は、姉が二人。
忍澂上人の誕生後、相次いでご両親が他界されますので、
二人の姉が親代わりとなって上人の面倒を見られたようです。
ということは、それなりに年の離れた姉たちだったのでしょうね。
上人が9才のとき、出家するのに付き添って増上寺に行った、とありますから、
5、6才は年上だったのではないでしょうか。
残念ながら、お姉さまたちのこの後の消息については、この本には記載がありません。


お父様のお仕えした徳川義直公は、家康の九男。
一国の殿様にお仕えするぐらいですから、それなりによい家柄だったのでしょうね。
後継ぎとしての男子を望まれたことや、
そのために「日者(占い・祈祷をするひと)」を雇い、祈祷させている点からも、
上人ご誕生の時に部屋が光り輝くのを、両親以外の者が目撃している点でも
(使用人を雇っていた、ということ)
ある程度、裕福な武士の家柄であったのではないか、と推測されます。

また、この父のお仕えしていた義直公が、
忍澂上人のその後の人生にも幾度か影響を及ぼします。

まずは、京都・八幡の正法寺。
上人が25才のときに、3年間、住いしてお世話になったお寺です。
直接のご縁は師僧である万無和尚の学友である廊道上人が住職をしていたお寺だったから、なのですが、
このお寺は、義直公のお母様の実家であり、この母上(お亀の方/相応院)の寄進によって建物も立派に整えられていた、とのことです。

また、上人が40才の時、義直公の後継ぎとして殿様になられた光友公に呼ばれて、仏道の講義をなさっておられます。以降、生涯にわたって、重要なパトロンの一人となられます。


お父様のご縁が、生涯、忍澂上人を経済的にも支えていたんですね。

忍澂上人のご誕生は、1645(正保五)年1月8日。

お母様のご逝去は、同年の2月10日。
お父様のご逝去は、同じく5月17日。


「宝が屋敷の中にあっても、それを愛でる家人がいない」という日者のことばを考えると
幸せな家族だったのかどうか、切なくなってしまいます。

しかし
日本が「忍澂上人」という宝を得られたのですから
ご両親には感謝!感謝!ですね。

  • 長崎の東明山興福寺に行って参りました。
CA3F0350.jpg
忍澄上人の本の序文を書かれた、悦峯道章上人のおられた、
長崎の東明山興福寺に、本日行って参りました!

悦峯上人は、この興福寺様の第五代の住職を務められたそうです。
このお寺の三代目の住職が、中国からあの隠元禅師をお招きしたそうで、
ですから日本にインゲン豆が初めて伝えられたのも、このお寺。
そして隠元禅師に付き従って、追いかけて、多くの中国人の僧侶も日本にやって来られたようです。
そう、もちろん長崎経由で。
(長崎には、通称“唐寺からでら”と呼ばれる中国風の寺院が数々あります。)

隠元禅師と一緒に来られたのが本文中に一章を使って紹介されている独湛禅師。
そして、その弟子?らしき存在として出て来られるのが、悦峯上人です。

独湛禅師が悦峯上人と奈良の当麻寺を訪れた時に、
『当麻曼陀羅(観無量寿経変相図)』を見て、大変驚かれます。
「なんと美しく尊い曼陀羅か!極楽浄土の様子があますところなく描かれている。
このような絵は、日本にだけ伝えられていて、我が中国では見たことがない!」
(手前味噌ですが、いわゆる『当麻曼陀羅』を使って作りました絵本『極楽』が、
同じく風濤社から出ております。)
実際には、
インドはもちろん、シルクロードにもこの系統の古い絵が見つかっておりますので、
中国に伝えられなかったわけはない!と思うのですが、
何にせよ明の時代には、高僧でさえその存在を知らないのですから、
すでに失われた宗教絵画となっていたのでしょうね。

忍澄上人は、お二人の感激に共感され、お二人を尊重されるがゆえに、
絵師にこの絵を複製させて表装も仕立て、
悦峯上人へとこの曼陀羅を寄贈されたんだそうです。
うーん、なんと度量の広いことでしょう!

この絵は当時悦峯上人のおられた長崎・興福寺へと施入され、
多くの中国からの客人たちが絵を見て驚き、感激して、浄土を尊ぶ心を起こした
と書かれておりました。


ちなみに、日本ではこの『当麻曼陀羅』、かなり複製されていて、
私が以前おりました三河あたりでは、浄土宗系統の寺院では
かなり多くのお寺が所有していらっしゃいました。
(“彼岸曼陀羅”と呼んで、春秋のお彼岸の際に、七日間づつ本堂にお祀りされていました。)
また時代でいいますと、
平安時代、鎌倉時代、江戸時代に複製のブームがあったそうです。
これらに共通するのは、戦乱の世が過ぎてしばらく経って、安泰な世が訪れた時、だそうです。
社会の安定と共に経済も豊かになり、時間もお金もかけた絵図が製作可能になる、ということ。
また、安泰な世の中で、人々はじっくりと“極楽をイメージする”という修行に打ち込めた、
ということもわかるわけです。
逆に、戦乱の世になると、
『山越阿弥陀図』などの来迎図が流行るんだそうです。
“いつ死んでもおかしくないから、今すぐお迎えを…!”
といった気分でしょうか。比較して考えると、面白いですよね。
(もう一点、付け加えるならば、
他ならぬ独湛禅師が、その後この曼陀羅を小型化して(1m四方くらいでしょうか)版木を作り、
印刷をして広めておられます。
小さな庵寺様では、この印刷したものに彩色してお祀りされているのを見かけたことがあります。)

さて、悦峯上人は確かに長崎におられたのですが、
今日お会いしました興福寺のご住職のお話によると、
「中国からの僧侶は、長崎で数年間おられてから、
京都・宇治の萬福寺へと上って行かれるのが定番でした」
とのことで、悦峯上人もその後、京都へと行かれたことが十分に考えられます。
となると、同じく京都の忍澄上人との密な交流も可能だったわけです。
悦峯上人による序文は、今回は自由詩に近い文体で訳しましたが、元々は雄渾な漢文です。
浄土の宗義を的確に把握し、
また忍澄上人の御一代に亘るご活躍を、全体的にバランスよくご存知でないと書けないような名文です。
そして文末に、悦峯上人と忍澄上人との交流の記事として、曼陀羅の話が出てくるのですが、
せっかくの名文が、予備知識のない読者にとって冗漫に感じられることを恐れて、
敢えてこの部分を本文中の脚註に入れてしまったのでした。
『忍澄上人行業記』が書かれましたのは、
忍澄上人が御往生を遂げられてから十七回忌の時です。
その時点で悦峯上人が序文を依頼されてますのは、
忍澄上人との年齢差もそれなりにあったのかもしれません。
(この点は、調べがついたらまたこのブログで追って公開します。)
もしかすると、忍澄上人の生前は主に独湛禅師を介しての交流であったのかもしれません。
しかし何にせよ、
大事な序文を依頼され、見事にその任を果たされた、当時の法然院門下の方々も喜んで納得されるような立場の上人でいらっしゃった、ということは間違いないのでしょうね。


ちなみに肝心の曼陀羅ですが、
長崎への原爆投下の際に爆風で建物のほとんどが倒壊してしまい、
ほとんどの資料も散逸してしまって、どうなったかわからない、とのことでした。
残念。
戦時下で弟子たちもみんな出兵してしまい、
先代のご住職様がお一人で、伽藍を一つづつ復興なされた、とのこと。
ご苦労が偲ばれます…。
  • 忍澂上人ゆかりの寺 その2(全)

 前回、紹介しきれなかった、本文中に出て来る寺院をまとめて紹介します。


まず、忍澂上人の御生涯についての美しい序文を書かれた悦峯上人のお寺、
長崎の東明山興福寺(通称「あか寺」)。黄檗宗で、いわゆる「唐寺からでら」です。


忍澂上人が最初に出家された最勝院。増上寺の塔頭寺院です。


20歳の頃、大勢の道俗の前で請義をした浅草の源空寺
すでに弁説で右に出る者はなく、上人の名調子を聴くために満堂の人で溢れかえった、と言います。
生涯交流を持つ学友・雲臥をして、
「今の世の富婁那(ふるな・仏弟子のひとり。説法第一。)だ」
と言わしめた場所でもあります。

24歳の時、無理やり住職にされそうになった、江戸四谷の法蔵寺。寛文八年(1668)冬二月の大火で、この寺院を含む江戸中が焼け野原となってしまい、この話は流れてしまいます。
当時「傳貞」という名前だった上人は、世の無常に打たれ、「忍澂」と名を改めて遁世を決意します。

遁世して、まず修行に打ち込んだのが、江ノ島・弁才尊天様の洞窟
(舟を借りて、岩肌をよじ登り、洞窟にたどり着きます。
当時は神仏分離以前ですので、岩本院(現在は岩本楼という旅館です)が江ノ島全体を治めていたと思うのですが、
この洞窟は、どういう位置づけになるのでしょうね。
ここには、七日間おられました。

近江の国・木之本浄信寺に通うために宿泊されたお寺、栄寿院。
宿坊だったのでしょうね。

同じく、竹生島での荒行の前後で、休養を取られたお寺、常行院。
やはり宿坊をされていたのでしょう。
(こちらこちら(記事の一番下から4行目)によりますと、
常行院の住職は明治になって神職になられたようですね。
神仏分離の嵐の中で、煮え湯を飲まされる想いであったようです…)

京都に出て来られてから、鴨水・善導寺の如実上人と出会うこととなった、祇園の清水寺
その前に、祇園祠、つまり八坂神社様にも参詣しておられます。

堺の阿弥陀寺におられた時、浄土宗の口伝を求めに来た理円法師のいたお寺・住吉の神宮寺
神仏分離以降、もはや存在しないお寺です。
実は、神仏分離によってこの世から消えてしまった名刹、というものが数多くあるようです。
江戸の仏教を考えるにあたって、
この“神仏分離”というのは大きなテーマとなって来るのでしょう。

正寿院 八幡の正法院の末寺。
昌玉庵の弁才天を買い取ってほしい、という話を取り次ぐ手紙を出したお寺です。
これ以上の詳しい情報は出て来ません。

註に出て来るのですが、東大阪の延命寺
この昌玉庵でお祀りしていた立派な地蔵菩薩尊(こちらのサイト様の二つ目の記事に写真があります)を、現在お祀りしているお寺です。
河内西国三十二番霊場。

堺の阿弥陀寺の所轄寺院、大本山・百萬遍知恩寺。名前のみの登場です。

同じく名前のみ、
法然院の立地の説明に出て来る、南隣りの禅林寺(永観堂。西山浄土宗禅林寺派の総本山。)と、

北隣りの銀閣寺(相国寺派の共同の公式ホームページのようです。ちょっと珍しい…)。

万無和尚の臨終の際に、臨終行儀に参加された高僧方の寺院。
京都・大雲寺(性愚上人)。
京都八幡・正法寺(單愚上人)。
有馬・極楽寺(圓冏上人)。
堺・安養寺(無的上人)。
京都・善光寺(直禅上人)。
京極・空也寺(清岳上人)。
大阪・大光寺(直玄上人)。
天満・運潮寺(貞玄上人)。

当時、忍澂上人と宗派を越えて交流のあった高僧のおられた寺院で、名前の出て来るもの。
安養寺(戒山律師) 滋賀県栗東にある真言宗の寺院。
革庵(慧中師) 京都二条寺町の革堂(行願寺。西国十九番霊場)のことでしょうか。

法然院の住職を引き継いだ玄阿上人が元おられたお寺、和泉国今井の西光寺。

交流のあった寺院。
林丘寺(普明院法内親王) 当時は皇室出身者の尼寺だったようです。現在は臨済宗。
伊勢国・蓮華渓の梅香寺(寅戴いんだい上人)。
盲目の弟子・龍河の自坊。彦根の観智院。

これも名前のみですが、唯願という弟子が元いた禅宗のお寺、大乗禅寺。

そして、この本を珂然上人が書こうと思ったきっかけとなった
宥賢阿闍梨の寺、宝幢山総持院正福寺

この阿闍梨の話を聞いた場所。阿闍梨の弟子・立英上人が住職となった寺、
和泉国・佐野の遍照寺。

追悼のうたの第一首目を詠んだ自性上人のお寺、摂津国・大道寺。


そして最後に。
法然院の別名“白蓮社”とは、元々中国・廬山慧遠が始めた念仏結社の名前です。
忍澂上人は、まさに日本の白蓮道場を目指して、法然院を創り上げたのです。


 

  • 忍澂上人ゆかりの寺院
 『獅谷白蓮社忍澂上人行業記』に出てくる寺院のうち、主要な寺院様を紹介してゆきます。

もちろん、一番に挙げなければならないのは

法然院です。
このお寺を建てるために生涯、ご修行されたのであり、このお寺の在り方そのものが、上人の思想であり、理想でもあったわけです。

次いで、上人の人生に多大なる影響を与えた寺院。

三縁山 増上教寺 (浄土宗大本山)
華頂山 知恩院  (浄土宗総本山)
共に浄土宗を代表する、東西の大寺院。
上人が最初に出家をしたのが増上寺であり、若き日の大半を過ごした要となる地が増上寺であり、
京都に来てから、常に意識しつつ、力を尽くし、なおかつ距離をとってきたのが知恩院です。

竹生島 宝厳寺 (真言宗豊山派・西国三十三観音霊場三十番札所)
命がけの弁才尊天さまへのご祈願をされた地です。明らかに、この経験を通して上人の人生は他者の追随を許さないものとなっております。

木之本 地蔵院浄信寺 (時宗)
竹生島に行く前にこの地で一週間、地蔵菩薩尊へとご祈願をされています。
理想的菩薩としての地蔵菩薩尊を、生涯敬ってゆくはじまりとなった寺院と考えられます。

関東十八檀林のなかで、
勝願寺
浄国寺
弘経寺
幡随院
上人の遊学の地です。もしくは、師僧・学友ゆかりの寺。
「関東十八檀林」とは、江戸時代の浄土宗僧侶の学校のようなもの。

京都でお世話になった寺院。
鴨水・善導寺
八幡・正法寺
八幡・昌玉庵は法然院の末寺。
この他、八幡では石清水八幡宮にもお世話になっています。

大阪・堺の阿弥陀寺
我孫子の浄福寺
堺の法行寺
それぞれにいわくがあります。

また、ご縁が結べなかったお寺。
槇尾の西明寺
大鳥山・神鳳寺
共に戒律で有名だった修行道場。


そして、忘れてならないのが、臨済宗の大本山、京都祇園の建仁寺
上人の一大事業、大蔵経の対校録を作るために、貴重な経本をお借りした格式・由緒ある寺院です。

また、交流のあった中国からの渡来僧のおられた、黄檗山万福寺も忘れてはなりません。

他に書き残しもありますが、おいおいご紹介して行きたいと思います。
今回列記した寺院も、個別に記事にしてゆく予定ですので、悪しからず。
  • 「勝」という文字
皆さん、「勝」という漢字はよくご存じでしょうが、その意味はご存じですか?
と言いますのも、このような表現が出てくるのです。
“喜びに不勝”
漢文に詳しい方なら
「なーんだ」
と言ったところでしょうが、
お馬鹿なワタシメには???でした。
“喜びに勝たず”!?
それとも、
“喜びに勝てず”!?

どちらにしても、さっぱり意味が通りません。
こうなると、もう漢和辞典を引くしかありませんね!
(と言うか、辞書を引かないとそもそもが進まないのです。)

調べてみると、私たちが普段よく知っている、勝ち負けの“勝つ”以外に、“堪える”と言う意味が出て来ました。

そうです。
“喜びに不勝”は、
“喜びに堪えず”
と読むべきだったのです!
もうちょっと頑張って変換すると、
“すごく喜んだ”
と言ったところでしょうか。

普段から使っている漢字も、実は今はあまり使われていないような意味があったりするのです。
よく知っているはずの伴侶の、あなたの知らない昔の顔があったりする…なーんて喩えは、ちょっとドキリとしますか?
  • 自鳴鐘

「 自ら鳴る鐘」って、何のことかわかりますか?
この『忍澂上人行業記』を現代語に訳していて、最初はどこか遠くの、時を知らせる鐘かな?と思ったんですけど。
忍澂上人は半時(約1時間)ごとに百遍念仏を申す習慣だったそうですが(これでさえ、真似する自信がない…だって、一日24回、ですよ!)、臨終間際になると、半時ごとに本堂で鳴らす雲版の音が聞こえなくなったからって、「枕元に自鳴鐘を置いた」って書いてあるんです。
枕元に?遠くで鳴る鐘が?
いやいや、そんなはずはない。枕元に置けるサイズといえば…

もうおわかりでしょうか。
そうです、答えは置時計なんです!
ちゃんとwikiにも出ています。ただし、これは江戸の後期のものみたいですから、
もっと簡単なものだったのでしょうけど。

ご存知だった方には無知をさらしてお恥ずかしいのですが、
江戸時代の初めごろに、すでに時計が普及していたなんて、ちょっとおどろきでした。
もちろん、高価なものだったのでしょうけどね!

参考
「和時計」で調べてみると、いろいろ出てきました。
師が使ってたのは、こんな感じだったのかな

そのほか
和−Time Rhythm〜和時計の暮らし〜 
というサイトさんもありました。

  • はじめに
 このブログは、江戸時代に活躍した忍澂上人(1645-1711)という方の伝記を中心として、
その伝記に関係する様々な副次的な事象を記述するものです。
雑感を交えてブログ形式で考察していくことで、忍澂上人のことを少しでも身近に感じて頂けると幸いです。

ブログ主は、縁あって江戸時代に珂然上人によって書かれた『忍澂上人行業記』という書物を、
現代語に翻訳して風濤社より上梓した者です。(2010年11月初版)
現段階でまだ未刊ですので、正式なタイトルおよび正確な出版日について決定しましたら、発表させて頂きます。

忍澂上人は、京都にあります法然院というお寺を作った方です。正確には、中興二世となります。
その当時の僧侶の質の低下を嘆いて、戒律を保って清らかな生活を送りながら、念仏を申すための道場として、法然院を開かれました。
また、当時世に広まっていたお経の全集に、誤字脱字が大変多かったことを嘆かれ、今でいうプロジェクト・チームを立ち上げて誤字脱字の訂正本を作り上げ、仏教の学問研究に大きな貢献をなされました。(世界に名高い『大正新脩大蔵経(たいしょうしんしゅうだいぞうきょう)』の礎となっているのに、あまり表だって紹介されることが少ないので、残念に思っています。)

この11月10日が、忍澂上人の300回忌になります。
私の出版も、この機会に上人を顕彰するためにほかならないのですが、その詳しい経緯については、出版された本のあとがきに譲りたいと思います。

現代人がおそらくほぼ失ってしまった宗教的な感覚に満ちた師・忍澂上人の伝記を、一人でも多くの方にお読みいただきたいと願っております。
基本的には、仏教についてほとんどご存じない方でも、スルスルとお読みいただけるくらいわかりやすく書いたつもりです。
専門用語は極力言い換え、また註も見やすくふんだんに取り入れて、知的好奇心も十分に満たされ、
小説を読み進めるようなワクワク感もあるものに仕上がったのではないかと思います。


原文は漢文なのですが、読解しながら気付いたちょっとおもしろいこと、
また登場人物(もちろん歴史上の人物たち)について、註では書ききれなかったこと、
関係するお寺などの紹介、
などを中心に、このブログで綴っていこうと思っております。
こうして、忍澂上人の生きた時代と、その周辺のより詳しい全体像が広がってゆくことが、
このブログの存在意義であり、願いであります。

師の生きざまを通して、読者の方々に“仏様に手を合わせるこころ”が少しでも芽生えたならば、
それは望外の喜びであり、時を越えて師も必ずや、極楽から喜びのエールを頂けるのではないか、と思う次第です。

では、記事の投稿はゆっくりとしたペースかとは思いますが、どうぞこのブログをお楽しみください。

南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
合掌。

桝田 英伸  拝